自分の好きなものをしっかりと知っておく事が大切な国

先日、イタリア人は大変コーヒーにうるさく、皆それぞれに自分好みにカスタムしたものを頼む。という記事を書いたが、イタリアは、コーヒーだけではなく、その他の種類も万とある。
例えば、パスタ、チーズ、ハム、なんとトマトソースにおいても。

まさに、選択肢天国なイタリアなのである。

こんなに選択肢があって、迷わないものかと思うのだが、スーパーではどの種類のチーズやパスタを買おうか迷っているイタリア人をあまり見ない。自分の買うべきものがもう決まっているかのように、その商品の前まできたら、それを手に取りその場を去る。


旅行でイタリアに来た時、スーパーマーケットで、どの商品につけても何種類もあるのを目の当たりにして、イタリアに住んだら、毎日新しいものを選び放題だなーなんて思っていた。
しかし、実際に暮らしてみると、そうならなかった。

実際には、それほど買うものは変わらなかった。なぜなら、自分の好きなものしか選ばないのだ。これは、イタリア人の友人に聞いてもそのようで、例えば、パスタも100種類あっても100種類を皆試すわけではなく、その中からお気に入りの1,2つを選んでずーとそれを選び続けるのだとか。なるほど。そういえば、イタリア人に好きなパスタ、チーズ、サラミを聞くと皆、どれも好き!と答える人は非常に少ない。皆、自分のこだわりを持っていて、目を輝かせながら教えてくれるのだ。

日常的に、小さい時から多くの選択肢の中から自分の好きを明確にして、自分で選ぶということを行っているイタリア人。何につけても自分の好き!という気持ちに忠実だ。それと同時に、皆それぞれ好き嫌いがあるということもしっかりと受け入れられているように思う。

例えば、人間付き合い。今の職場のイタリア人は相手がお客さんであれ、上司であれ、感情的になることを許されているように感じる。どんな場面でも決してイタリアでは"空気が読めない人"という微妙な空気になることはならなかった。職場で喧嘩をしている人がいても、"あの人はそういう人。ただ、自分とは合わないのよ。"と両者割り切って、次の日には二人ともけろっとしている清々しさがあった。

また、"嫌う" ということは悪いことでは無い。ということもイタリアでの学び。

嫌いなものがちゃんと自分で分かっているからこそ、好きなものがわかり、掴みやすくなるのだと。そして、チーズやハムのように、パスタAが自分に合わなくても、スーパーに行けばパスタB ,パスタC,パスタDなど余るほどの選択肢があり、自分の好みを選んでいいことを文化を持って私たちに教えてくれるのです。

人間らしいとはおもいませんか?
日本では、好き嫌いせずに残さず食べなさいと小さい頃から躾けられます。しかし、これは本当に正しいことなのでしょうか。子供ながらも、自分の好きな味、嫌いな味は誰しもに存在するし、自分が快適な量も自分が一番知っているはずです。それをなぜ自分以外の人の物差しで判断され、強制されなければいけないのでしょう。
イタリア人が日本人よりも人生を楽しんでいるように見えるのは、きっと、"好きなものは好きでいい。嫌いなものを嫌いでいい。"これが許されているかどうかが根元にあるのでは無いでしょうか。



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